Vn 4回生 今泉俊佑

はじめに

私たち九大フィルハーモニー・オーケストラは2024年9月16日にベートーヴェンの交響曲第9番を中心としたプログラムをお届けする第九特別演奏会を開催いたします。ベートーヴェンの交響曲第9番は私たち九大フィルが日本初演をしたともいわれており、2024年はその初演からちょうど100周年という節目に当たる年です。この記事では私たちが演奏する「交響曲第9番 ニ短調 作品125」を作曲したベートーヴェンの生涯とその音楽について4つの時代に区分して特集します。

 

第1章 ボン時代

第1節 -出生と学習期-

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは1770年12月にドイツのボンで生まれました。彼の生まれた家は、同名の祖父ルートヴィヒが宮廷楽団の楽長で、父親ヨハンも同じ宮廷楽団で声楽家として勤める音楽家の家系でした。幼いころから父の教えで音楽を始めたベートーヴェンは、7歳で初めての公開演奏を行い、12歳で最初の作品を出版するという早熟な少年でした。しかし、父ヨハンの音楽教育は決して上等なものとは言えませんでした。ヨハンは幼いベートーヴェンに無理やりレッスンを行い、酒癖の悪かった彼のレッスンは暴力を伴うような激しいものだったと言います。後述しますが母のマグダレーナはベートーヴェンが16歳の時に亡くなり、同じ頃に父親はアルコール依存で宮廷楽団の職を追われるため、一家の生活はベートーヴェン一人の肩にかかることになるのです。ベートーヴェンは若いうちから一家の家計を支えながら、音楽の勉強に励んでいました。この苦難の日々はベートーヴェンの人格形成に少なからず影響を与えたことでしょう。

 

第2節 -恩師ネーフェとの出会い-

父親から基礎的な音楽教育を受けたベートーヴェンでしたが、彼に本格的な音楽教育を与えたのはクリスチャン・ゴットロープ・ネーフェ(1748-1798)でした。ネーフェは宮廷オルガニストとして活躍する傍らで作曲も行い、当時のボンで高い評価を得ていた人物でした。彼の下でベートーヴェンは音楽の基礎から作曲法まで幅広く学び、その天性の才能をさらに伸ばしていきました。ネーフェのもとで書かれた初期の作品には、時の選帝侯マクシミリアン・フリードリヒ(1708-1784)に捧げられた『3つのピアノソナタ』や初めての出版作品である『ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲』があります。いずれも弱冠12歳ほどの少年が書いたとは思えない作品です。さらにベートーヴェンは鍵盤楽器奏者としての能力も存分に発揮しており、1784年6月には宮廷第二オルガニストとしての地位を獲得しています。こうした少年期のベートーヴェンの活躍の背景には恩師ネーフェの支えがありました。

 

第3節 -ウィーン訪問-

ベートーヴェンが3つのピアノソナタを献呈した選帝侯フリードリヒが1784年に亡くなった後、選帝侯マクシミリアン・フランツ(1756-1801)がその後を継ぎました。彼は自身でも楽器を嗜んでおり、学問や芸術を重んじる性格で知られていた人物です。ベートーヴェンもその恩恵を受けており、1786年に創設されたボン大学で聴講生として哲学の講義を受けていました。この新しい選帝侯のもとで勉学に励んでいたベートーヴェンは、1787年3月に初めてウィーンを訪問します。このころのウィーンは音楽の都として音楽史上最も発展していた時期にあたります。フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)やヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)といった当時の名だたる作曲家がウィーンで活躍していました。若き日のベートーヴェンも、音楽家として大成することを志してウィーンへと向かったことでしょう。このウィーン訪問での主たる目的は当代随一の作曲家であったモーツァルトに師事することでした。しかし、この時にベートーヴェンとモーツァルトが交流したというエピソードは、彼らのどちらの手記にも記録されておらず、実際にベートーヴェンがモーツァルトに師事したことを示す決定的な証拠は残っていません。一方で、後年のベートーヴェンは弟子のカール・ツェルニー(1791-1857)にモーツァルトの演奏について語っていることから、彼の演奏を聴いた可能性はあるとされています。新たな土地での活躍に期待を膨らませていたはずのベートーヴェンですが、このウィーン滞在は突然の出来事によって遮られることになります。ベートーヴェンがウィーンに到着してからほどなくして、彼の母親が重篤な状態にあるという知らせが届いたのです。ベートーヴェンはすぐにボンへ引き返すことになり、結局このウィーン滞在は2週間ほどで終了することになりました。それでもモーツァルトとの出会いからベートーヴェンが学び取ったものは少なくなかったと考えられます。

 

第4節 -青年期のベートーヴェン-

母の危篤の知らせを受けてボンに戻ったベートーヴェンでしたが、その2か月後に母親は亡くなってしまいます。一家の支えを失ったベートーヴェンは、もともと酒浸りだった父親に代わって、一家を経済的に支える必要がありました。ベートーヴェンは宮廷でオルガニストを務める傍らで、貴族たちにレッスンを行い、さらにはヴィオラ奏者として宮廷や劇場のオーケストラで演奏をすることで収入を得ていました。この頃に出会った医学生のフランツ・ヴェーゲラー(1765-1848)は彼の生涯の友人となる人物です。ヴェーゲラーは自らが出入りしていたブロイニング邸の人々にベートーヴェンを音楽家として紹介しました。このブロイニング家は貴族の家系であり、ベートーヴェンはブロイニング家の子どもたちにレッスンを行うことになりました。ブロイニング邸には当時の知識人や要人たちが出入りしており、ベートーヴェンは彼らとの交流の中で教養を深めたようです。さらにベートーヴェンはボン大学での聴講に加えて、友人たちと共にボン読書協会という組織にも入会しています。読書協会ではボンに招聘されていた知識人たちと交流を深める機会に恵まれて、当時の現代哲学であったイマヌエル・カント(1724-1804)の思想、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテや(1749-1832)フリードリヒ・フォン・シラー(1759-1805)の文学などに触れていました。とりわけシラーの詩『歓喜に寄せて(An die Freude)』には魅了されたようで、このシラーの詩に曲を付けたいという思いを読書協会のメンバーに話しています。ベートーヴェンの音楽には哲学的な精神や普遍的なテーマが見られるという特徴がありますが、それらは彼が若いころに身に付けた豊かで幅広い教養に裏付けられたものだと言えます。

 

第5節 -ハイドンとの出会い、そして旅立ち-

1790年2月に選帝侯フランツの兄にあたるオーストリア皇帝が他界して、同年10月に新しい皇帝としてレオポルト2世が即位しました。他界した皇帝の追悼と即位した新皇帝の奉祝にあたって、ベートーヴェンは2つのカンタータ(声楽とオーケストラからなる作品)を作曲しました。オーストリア皇帝の追悼式は先に述べたボン読書協会によって企画されたものであり、ベートーヴェンが作曲を任されたのも自然な流れだと言えるかもしれません。これら作品は皇帝のために書かれた作品というだけあって、どちらもフル編成のオーケストラに独唱と混声合唱を加えた大規模な作品に仕上げられており、当時のベートーヴェンとしてはかなりの力作だったと思います。しかしながら、これら2つのカンタータは実際に演奏されることはありませんでした。大作であった故に、ベートーヴェンにとっては演奏されなかったことへのショックも大きかったかもしれません。しかし、その矢先にベートーヴェンにとって偶然の出会いが訪れます。ロンドンへ遠征をしていたハイドンが、拠点であるウィーンへの帰路でボンを訪問したのです。この時にベートーヴェンは先述した2つのカンタータをハイドンに見せる機会に恵まれたようです。カンタータの楽譜を見たハイドンはベートーヴェンを弟子として認める約束を交わし、これを契機としてベートーヴェンはウィーンへと招かれることになりました。ベートーヴェンの旅立ちに際しては、ボンの友人たちが何度も送別会を開いて彼を激励したようです。ベートーヴェンと友人たちの集いの場であったレストランの記念帳には、ブロイニング家をはじめとした多くの人々からの言葉が綴られています。その後に選帝侯フランツによる許可も正式に下りたため、ベートーヴェンは故郷のボンを後にして、二度目となるウィーンへと旅立ちました。

 

第2章 ウィーン時代前期

第1節 -新天地での活躍-

音楽の都ウィーンでの成功を夢見た青年ベートーヴェンは約1カ月の旅を経て1792年11月にウィーンへと到着しました。モーツァルトは前年に35歳という若さでこの世を去っていたのですが、ウィーンは音楽の都としての輝きを失ってはいませんでした。当時のウィーンは文化の交わる拠点であり、周辺の貴族たちがウィーンにも邸を構えていました。そのため多くの音楽家が貴族たちの集いの場であったサロンを出入りしていたのです。ベートーヴェンも例外ではなく、サロンで貴族のために即興演奏を行ったり、交流のあった音楽家のために作品を書いたりして、徐々にその名声を高めていきました。それに加えて、ベートーヴェンは弟子入りの約束を交わしていたハイドンのもとで作曲の勉強も続けていました。しかし、彼らの師弟関係は常に良好というわけではなかったようです。当時のハイドンは作曲をはじめとした自身の音楽活動が忙しかったため、ベートーヴェンへの指導にあまり熱を注いでいなかったようです。ベートーヴェンはハイドンの他にも当時のウィーンで名高い作曲家だったアルブレヒツベルガー(1736-1809)やモーツァルトと親交の深かったサリエリ(1750-1825)などにもハイドンには内緒で師事していました。こうして演奏と作曲の腕を磨いたベートーヴェンは、1795年にブルク劇場でピアニストとしてのデビューを果たし、同年に習作を除く初めての本格的な作品であるピアノ三重奏曲を出版しています。そして5年後の1800年に記念すべき交響曲第1番が初演されます。交響曲第1番というのは、往々にしてその作曲家のキャリアの節目に書かれることが多い重要な作品です。例えば、ロシアの作曲家ショスタコーヴィチ(1906-1975)は音楽院の卒業制作として交響曲第1番を書いていますし、ドイツの作曲家ブラームス(1833-1897)は20年以上の歳月をかけて完成させた交響曲第1番で、作曲家としての確固たる地位を築きました。ベートーヴェンも交響曲第1番と共に作曲家のキャリアを踏み出したように思われましたが、初演の評価はあまり芳しくなかったと伝えられています。当時の聴衆からしてみれば、ベートーヴェンの音楽は新しすぎたのかもしれません。しかしながら、交響曲第1番が当時の人々に受け入れられなかったという事実は、彼の音楽の新規性と独創性を逆説的に物語っているようにも思われます。このころにはピアノソナタ第8番『悲愴』やピアノ協奏曲第1番といった初期の傑作群が生まれています。これらの作品は古典的な形式を守りながらも、和音や楽器の扱い方など随所に先進的な要素が見られ、すでにベートーヴェンの革新的な音楽を予感させています。

新しい土地での快進撃が続いているように見えたベートーヴェンでしたが、当時から聴力の衰えを感じていたようです。実際には1796年頃から聴力の衰えに悩まされていたようですが、そのことを友人に打ち明けたのは1801年のことでした。それでも当時はごく一部の人にしか自身の聴力については打ち明けることはありませんでした。音楽家のベートーヴェンにとって最も重要な聴力の衰えを、他人に知られることは避けたかったようです。

 

第2節 -ハイリゲンシュタットの遺書-

失われつつあった聴力を何とか回復させたいという思いで、ベートーヴェンは何人もの医者を訪ねましたが、どの医者に勧められた治療法でも目立った効果は見られませんでした。1802年5月には「静寂による回復」を求めてウィーン郊外のハイリゲンシュタットに出向きます。ハイリゲンシュタットはベートーヴェンが好んだ土地で、1808年に書かれる交響曲第6番『田園』の着想の源になったとも言われています。現在でもハイリゲンシュタットはベートーヴェンゆかりの土地として広く知られており、人々の憩いの場としてその姿を保っています。しかし、病状は回復するどころかむしろ悪化するばかりで、ベートーヴェンは自身の聴覚障害が治癒の見込みのないものだと悟ったのです。聴力の衰えは音楽活動に支障をきたすだけでなく、ベートーヴェンの日常的な人付き合いを制限することにもなっていました。聴力の衰えをできる限り周囲に知られないように努めてきたベートーヴェンでしたが、いつまでも隠し通すことはできず、ついには自身の兄弟にも打ち明けなければならないほど症状は悪化していたようです。

彼は療養の地であったハイリゲンシュタットにて、自身の弟のカールとヨハンに宛てた遺書をしたためています。これは「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれており、当時のベートーヴェンの心境を知る上で重要な資料となっています。遺書という呼び名からしばしば誤解されるのですが、これは自殺をほのめかすものではなく、むしろ自分に差し掛かる苦難を乗り越えて芸術家としての使命を果たす決意表明ともいえる内容となっています。

現在のハイリゲンシュタット(著者撮影)

 

第3節 -革命と英雄-

ベートーヴェンの生きた時代は、ヨーロッパの歴史上で重要な革命と同期しています。ウィーンに住んでいたベートーヴェンにとって隣国であったフランスの革命は関心の対象だったようです。当時はフランス革命の最中であり、革命のモットーであった「自由・平等・博愛」の精神にベートーヴェンは強い共感を示していたようです。特に、自分と同世代ながらも革命の旗手となっていたナポレオン・ボナパルト(1769-1821)には憧れがあったようで、彼のために交響曲を書きたいという思いを抱くようになりました。その思いが音楽として結実したのが交響曲第3番『英雄』です。当初は『ボナパルト交響曲』と題されたこの交響曲でしたが、1804年にナポレオンが皇帝に即位したという知らせがベートーヴェンの耳に入ります。これを知ったベートーヴェンは憤慨してナポレオンへの献呈を取りやめたというエピソードはよく知られています。実際に筆写譜に書かれたナポレオンへの献辞は消されており、その代わりに『英雄』と名付けられることになりました。しかし、交響曲第3番『英雄』の音楽的な内容は、ナポレオンのように革新的な要素に満ちています。『英雄』は当時の交響曲としては破格の規模であり、演奏には50分近くを要し、ホルンを3本用いた楽器編成(通常は2本だった)で書かれています。楽曲の構成としても、第2楽章はおそらく交響曲史上初めての「葬送行進曲」と題されており、第3楽章はそれまでの通例であった古い舞曲形式のメヌエットではなく、3拍子のスケルツォを本格的に取り入れました。さらに、この曲の調である変ホ長調はしばしば英雄的な調性と言われますが、この印象を与えたのはベートーヴェンの交響曲第3番であると言えます。19世紀末から20世紀にかけて活躍したドイツの作曲家リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)の作品に『英雄の生涯』と題されたものがありますが、この曲も全体としては変ホ長調で書かれています。交響曲第3番『英雄』はその構成と楽器編成、和音の使い方のすべてにおいて革新的な要素を含んでおり、音楽史における記念碑的な存在であると同時に後世の作曲家にとってのメルクマールになったといえます。

 

第4節 -傑作の森-

交響曲第3番『英雄』が書かれた1804年以降の10年間は、ベートーヴェンの創作における絶頂期にあたり、フランスの文豪ロマン・ロラン(1866-1944)は「傑作の森」と評しています。ここでは傑作の森の時期に書かれた重要な作品をいくつかご紹介します。まず交響曲では冒頭のモチーフと「運命」の通称で有名な交響曲第5番や『田園』として知られる交響曲第6番が挙げられます。交響曲第5番は重々しく荘厳な第1楽章から力強く絢爛な第4楽章に至る構成で書かれており、この「苦悩から歓喜へ」とも呼ばれる流れはベートーヴェンの作品のモットーのひとつです。交響曲第6番『田園』は全5楽章からなる交響曲で、当時としては珍しく、それぞれの楽章に標題が付いています。第3楽章『田舎の人々の楽しい集い』から第5楽章『牧歌、嵐の後の喜びと感謝の気持ち』は通して演奏するように指示されており、全体として田園に対する印象や心情の変化が巧みに描写されています。第2節でも述べたように、この『田園』はベートーヴェンが愛したウィーン郊外のハイリゲンシュタットの自然に触発されて書かれた作品とされており、彼の自然愛の精神が表現されています。協奏曲としてはピアノ独奏で曲が開始されることで知られるピアノ協奏曲第4番やヴァイオリニストの友人クレメント(1780-1842)のために書かれたヴァイオリン協奏曲などが挙げられます。ピアノ曲の分野ではピアノソナタ第21番(ワルトシュタイン)やピアノソナタ第23番(熱情)、ピアノソナタ第26番『告別』などが作曲されています。ピアノソナタ第26番『告別』はベートーヴェンのピアノソナタの中ではよく演奏される作品の一つですが、一般にはあまり知られていない作品かもしれません。1809年に書かれたこのピアノソナタは、ベートーヴェンのパトロンであり作曲の弟子でもあったルドルフ大公(1788-1831)という人物に捧げられています。この1809年はナポレオンによるウィーン包囲が行われた時期と重なっています。皇族という身分であったルドルフ大公はウィーンを離れることになるのですが、その出発に際してベートーヴェンは彼にピアノソナタを書き贈ったのです。楽曲自体は全部で3つの楽章からなる作品で、それぞれの楽章に『Das Lebewohl(告別)』、『Die Abwesenheit(不在)』、『Das Wiedersehen(再会)』という標題が付けられています。また第1楽章の冒頭の音型には、ドイツ語で別れの挨拶を意味する“Lebewohl”という言葉が付されています。この“Lebewohl”という言葉ですが、ドイツ語で日常的に使われる別れの挨拶である“Tschüss”や“Auf Wiedersehen”と比べて深刻な印象を持つ言葉です。結果的にルドルフ大公は1810年にウィーンへと帰還を果たしますが、その別れは決して再会が約束されたものではなかったのです。ベートーヴェンは孤独で気難しい人物という印象を抱かれることもありますが、実際は人々とのつながりを大切にしていたことが窺い知れるエピソードだと思います。

 

 

第3章 ウィーン時代後期

第1節 -不滅の恋人-

傑作の森の後期に当たる1812年の夏、ベートーヴェンは前年に続いてボヘミアへ旅行に出かけています。このボヘミアの地でベートーヴェンは不滅の恋人という正体不明の女性に向けて手紙を書き残しています。この不滅の恋人が誰であるかを解明する試みは、今日まで多くの研究者によってなされていますが、未だに断定することはできていません。その中でも、ベートーヴェンと親交の深かったアントーニア・ブレンターノ(1780-1869)という人物が不滅の恋人だとする説が有力です。このアントーニアという人物は、オーストリア大使館の外交官を父に持つ家庭に生まれた貴族の娘でした。その後、アントーニアは同じく貴族の身分であったフランツ・ブレンターノ(1765-1844)と結婚することになります。しかしながら、貴族の家庭で育ったいわゆる箱入り娘のアントーニアにとって、結婚生活は精神的な負荷も大きかったようです。日常的なストレスだけではなく、フランツとの間に生まれた第一子がその翌年に亡くなり、その後にはアントーニアの父親が病に倒れるといった不幸が彼女を襲いました。父の看病のために実家へ戻ったアントーニアは、その後3年間は実家にとどまり続けることになり、その間にベートーヴェンと出会っています。ベートーヴェンは精神的に苦しかった彼女に曲を贈ったり、慰めの音楽を演奏したりして関係を深めていきました。こうしてベートーヴェンとアントーニアが関係を深めていた3年間、ほとんど別居の状態だったフランツでしたが、最終的にアントーニアともう一度やり直すことになったため、ベートーヴェンとアントーニアとの関係がそれ以上に進展することありませんでした。アントーニア以外にもベートーヴェンが結婚を申し込んだ女性が複数いることが知られていますが、そのいずれも身分の違いなどを理由に断られています。結婚して家庭を持つことを望んでいたベートーヴェンでしたが、生涯を通してその願いが成就することはありませんでした。

 

第2節 -フィデリオ-

1814年にはベートーヴェンが生前に完成させた唯一のオペラである『フィデリオ』が初演されています。このオペラのあらすじは、無実の罪で囚われの身となった主人公フロレスタンを、その妻であるレオノーレ(劇中では男装してフィデリオと名乗る)が助けるというものであり、当時流行していた救出劇の様式に沿って書かれています。1805年に初演されたオペラ『レオノーレ』を改作して完成した『フィデリオ』は、歴史的に見ればその創作の時期がフランス革命と重なっています。またベートーヴェンの個人的な事情を鑑みれば、彼がブレンターノを含む多くの女性に恋をしていた時期でもあります。前述したように、ベートーヴェンは結婚して家庭を築くことを強く望んでいたようですが、身分の違いなどから結局どの女性とも結婚には至りませんでした。そうした数々の恋愛が成就しないことへの反動として、このオペラの製作に力を入れていたのかもしれません。オペラ『フィデリオ』で描かれた男女の愛は、後に交響曲第9番で普遍的な人類愛へと昇華されることになります。

 

第3節 -創作の停滞と度重なる不幸-

作曲家としての名声を得ていたベートーヴェンでしたが、1813年頃からベートーヴェンは短い期間ではあるものの、創作の停滞期に入ります。このスランプの背景には、決して順風満帆とはいえない当時の私生活が関係していると考えられます。第一に、この章の第1節で述べたアントーニアとの恋愛関係が上手くいかなかったことが挙げられます。ベートーヴェンはアントーニア以降に新たな恋愛をすることはなかったとされており、恋愛や結婚に対してある種の諦念を抱いていたのかもしれません。さらに1815年には弟のカールが亡くなり、その甥のカール(同名なのでややこしい)の後見人となる権利を巡って裁判を起こしています。この裁判に勝訴したベートーヴェンは、その後カールの面倒を見ることになり、カールを大学に入学させて学者に育てようとしていましたが、ベートーヴェンの期待とは裏腹にカールは実業学校へと転校することになります。しかし、そこでのカールの成績は芳しくなく、一方でベートーヴェンのカールに対する期待は相変わらず強かったため、両者の溝は深まるばかりでした。最終的にカールは1826年に拳銃での自殺を図るほどに追い詰められてしまい、ベートーヴェンもそれによって精神的な負荷を受けることになったのです。さらに持病だった難聴は悪化の一途をたどっており、この頃には日常会話でも筆談を要するほどでした。こうして数々の苦難に見舞われたベートーヴェンでしたが、数年もすると創作意欲を取り戻し、後期の傑作の数々を生みだすことになります。

 

 

第4章 晩年

第1節 -飽くなき探求心と創造-

恋人との破局や難聴の悪化といった度重なる不幸の一方で、スランプを抜けたベートーヴェンの創作意欲はとどまるところを知りませんでした。傑作の森の時期と比べて作品数こそ少なくなっていますが、中期までのスタイルをさらに洗練させた傑作をいくつも残しています。後期三大ソナタとも呼ばれるピアノソナタ第30番から第32番では、それまでの音楽の形式を打破しつつも、古典的な作曲技法を取り入れており、ベートーヴェンの独自の様式として評価されています。ベートーヴェンはハイドンやモーツァルトといった古典音楽の流れを汲んで、その様式を完成させた人物であると同時に、それらを取り込んで新たな音楽を目指した人物でもあるのです。このベートーヴェンの二面性は今日に至るまで、彼の作品の音楽的な価値を示しています。そしてベートーヴェンは完成された最後の交響曲に取り掛かります。

 

第2節 -交響曲第9番-

交響曲第9番の構想はベートーヴェンの青春時代にまで遡ることができます。若いベートーヴェンがボンで出会ったシラーの詩『歓喜に寄せて』に音楽を付ける構想を抱いていたことは前に述べました。それから交響曲第9番に繋がるスケッチがいくつか書かれることになりますが、この構想が本当の意味で実現し始めるのはベートーヴェンがボンを旅立ってから25年後の1817年のことで、この時期から交響曲第9番の製作に本格的に取り掛かり始めたとされています。翌年の1818年には第1楽章がおおよそ完成しますが、他の作曲の仕事によって交響曲第9番の作曲は一時中断され、再びその作曲の筆を執るのは5年後の1822年のことです。同年にロンドンのフィルハーモニック協会から交響曲の作曲を委嘱されたので、ベートーヴェンはこれを契機として一気に筆を進めたと考えられます。それでも第4楽章の作曲には随分と時間を費やしたようで、交響曲第9番の完成は1824年の1月まで待たなければなりませんでした。結果として第4楽章に「歓喜の歌」の通称を持つ合唱を導入した前代未聞の様式で書かれたこの交響曲は、全体としては第1楽章にソナタ形式を持つ全4楽章構成の古典的な形式ともいえますが、各々の楽章の性格はきわめて革新的です。

第1楽章は弦楽器のトレモロ(同音反復)で始まります。この音はラとミから構成されるのですが、これは空虚5度と呼ばれる音程です。空虚5度はそれ単体では長調とも短調とも言い切れない曖昧な響きになるため、古典的な和声学では禁則とされているものです。しかし、この冒頭での扱い方は壮大な物語の始まりを予感させるようで、非常に効果的であると思います。また第1楽章の第2主題ですでに「歓喜の歌」の一部が提示されています。第2楽章は3拍子で歯切れのよいスケルツォです。交響曲第2番で初めて取り入れられ、交響曲第3番『英雄』で本格的に書かれたスケルツォですが、この楽章ではティンパニの積極的な使用や巧みなテンポの操作によって切迫感の高いものに仕上がっています。一方で中間部の旋律は非常に優美で第4楽章の歓喜の歌を思わせます。第3楽章は優美な変奏曲です。変奏曲というのは、一つのテーマをリズムやハーモニーの変化を伴って様々に変化させる形式で書かれる楽曲です。ベートーヴェンは生涯に渡って変奏曲を書き続けており、最初に出版された作品も変奏曲であり、晩年に書かれたピアノソナタ第30番や第32番でも変奏曲が取り入れられています。この第3楽章では優美な性格をほとんど失うことなく転調を繰り返しながら次第に盛り上がってクライマックスを迎えます。その後、いったんは落ち着きますが、強烈な不協和音をもって第4楽章へと突入します。この第4楽章は独自の様式で書かれており、古典的な形式に当てはめることは困難です。第4楽章では歓喜の歌の旋律が登場するまでに長い序奏が奏でられますが、ここでは第1楽章から第3楽章までの主題の断片が回想されます。その後に歓喜の歌が器楽のみで演奏され、バリトンの独唱を経てついて歓喜の歌が導入されます。このバリトンの独唱によって歌われる歌詞は、本来シラーの詩には含まれておらず、ベートーヴェンの創作による箇所となっています。その歌詞の内容は「おお、このような音ではない。もっと歓喜に満ちた歌を歌おうではないか」というものです。ここで歌われている「このような音」というのは、第4楽章の冒頭で回想された第1楽章から第3楽章までの音楽を表しているとされています。つまりベートーヴェンは第1楽章から第3楽章までの音楽を自ら否定して、第4楽章の歓喜の歌へとつなげています。これはベートーヴェンが真に伝えたかったメッセージは第4楽章にあるということを強調するためのアイデアだと言えます。歓喜の歌の中で歌われているのは「時流が過酷にも引き裂いたものを再び結びつける」、「すべての人々は兄弟となる」といった人類愛です。失恋や病といった幾多の困難を乗り越えた先にベートーヴェンが見出した、人類愛や博愛といった普遍的な精神がこの交響曲の中で歌われています。交響曲第9番は、ベートーヴェンの長い間の音楽的な実験精神と哲学的精神が見事に結実した傑作として扱われているのです。1824年5月初演された交響曲第9番は、聴衆から熱狂的に迎え入れられたと言われていますが、実際のところは定かではなく、初演後すぐに行われた再演はあまり成功していないようです。初演のエピソードの真偽はどうあれ、交響曲第9番はフェリックス・メンデルスゾーン(1809-1847)やリヒャルト・ワーグナー(1813-1883)といった後世の作曲家によってその真価を見出されて世に評価されることになります。現在では、その旋律の親しみやすさから一般にも歌われる曲となり、日本でも年末に第九を演奏することが恒例となっています。第九の演奏における合唱団は一般参加も多く、今回の九大フィルハーモニー・オーケストラの演奏会でも合唱団は公募により集まっています。ベートーヴェンの第九には人々を惹きつけてやまない魅力があるものです。

 

第3節 -最期-

交響曲第9番の後には、いくつかの弦楽四重奏曲や小品を書いたのみです。これらの音楽は古典的な様式を踏襲しながらも、その構成や書法に先鋭的な要素も見られます。例えば、バロック時代に発展した技法であるフーガを独自の様式で用いたり、旋法と呼ばれる古い時代の音階をあえて取り入れたりしています。弦楽四重奏曲第13番の終楽章は当時の人々にとってあまりにも難解だったために、ベートーヴェンは出版社から書き換えることを余儀なくされているほどです。ベートーヴェンの作品は19世紀のロマン派の音楽に先鞭をつけていると評価されますが、晩年にはさらに先の音楽にさえ通じるような音楽を遺しているのです。晩年にも作曲を続けていたベートーヴェンですが、1827年3月に体調を大きく崩してしまいます。ベートーヴェンの危篤の知らせを受けて、旧来の友人であったブロイニングとその家族や関係のあった音楽家たちが彼を見舞いに訪れました。しかし、その後も回復することはなく、ベートーヴェンはブロイニングをはじめとした友人や家族に看取られながら1827年3月26日に56歳でその生涯を閉じました。

 

終わりに

ここまで読んでいただきありがとうござました。ベートーヴェンという存在を身近に感じていただき、彼の生涯と作品に興味を持っていただけると幸いです。九大フィルハーモニー・オーケストラによる第九特別演奏会は2024年9月16日にアクロス福岡シンフォニーホールで行われます。ベートーヴェンの傑作を皆様と同じ空間で共有できることを団員一同とても楽しみにしております。

 

参考文献

石川栄作『人間ベートーヴェン』(平凡社, 2021)

久保田 慶一ほか『決定版 はじめての音楽史 -古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』(音楽之友社, 2017)

平野昭『作曲家 人と作品シリーズ ベートーヴェン』(音楽之友社, 2012)

ハインリヒ・シェンカー(西田紘子・沼口隆訳)『ベートーヴェンの第9交響曲 分析・演奏・文献』(音楽之友社, 2010)